今日は、ムサビの学生さんの企画『表現者スタメンサッカー』に参加しに、武蔵増戸までやって来ました。
うちの代表にメールを頂いたようで、面白そうなので、便乗して参加することにしました。
スポーツ。野球やサッカーを始めとしたあまたのスポーツは、純粋にその技能を競うものではなく、お金をはらう観衆によって、成り立つもの。一流の選手とは、フィールドの中である意味、表現をしているのかもしれません。
そしてある意味、選ばれているのかもしれない美術の作家達も、表現を磨く為に、まあサッカーでもして、汗を流しましょ!といった明確な意図を感じたんです。
さてどうなることやら、、、
記事はつづきます、、
ミナガワと同じチームに。
みんな本気!
近くにいたDS少年も参加!
みんな本気です!
汗を流したあとはキャンプです。
スポーツしてキャンプして食べるだけのこの日。
企画者いわく
「また次回も」とのこと何だかわからないけど、今後の進展が期待される集まりです。
きただ
けさ。清水くん作優秀おこげ
昨晩は、キャンプファイヤーになり、企画者の意図とする、「座談会」がおこなわれました。
しかしながら、定義することが困難な(又は不可能な又はタブーな)美術を語る為、若しくは自作品やそのビジョンを語ろうとする時、慎重にならなければならない時があると感じました。
何故ならば、多くのことは、作品またはモノ(出来ゴト)のなかに内在していて、言葉にすることは難しいからです。
その出力が困難だからこそ、多くのメディアで表出させている個人が、それぞれ独自であることもその現れなのかもしれません。
とにもかくにも、WAPのメンバー又は関係者が言葉で語った瞬間。それは新鮮でした。
まだまだ面白い可能性を持っているんだなこのプロジェクトは。と、なんだかほっこりしました。
それは以下の列挙。
・美術の社会性のとは?はっきりと定義できる作家なんていないんじゃないの?
・美術家は、学者である。実験をしてるんだから失敗したっていいんじゃないの??
・年をとっても作品を作っていたい。そして傑作をつくりたい。
・作家はそもそも孤独だ。個人があつまっているだけの集団でしかないんじゃないか。それでいいんじゃないか。
・美術教育を肯定する。なぜならば、見たものを表現できる技術はどんなにアカデミックであっても、自分の糧になっているから。